日本の歴史を語る上で、徳川家康という人物は有名過ぎて面白くないかも知れませんね。
あまりにメジャーな人物なので、今さら謎なんてないだろうと思われるからです。
時代物のドラマや映画への登場回数も、きっとトップクラスなのではないでしょうか。
映画やドラマの中の家康さんは、愛知県の三河地方の方言である三河弁を使っていることがあります。
ですが、方言を一切使っていない設定のこともありますよね。
ほんとのところはどうだったのでしょう。
標準語が決まっていたわけじゃないから、方言使っていたんじゃないの?
坂本龍馬も西郷隆盛も、方言使ってる設定がほとんどだよね。
設定なので、それが史実に基づいているかどうかわかりません。
家康さんがしゃべっている音声データが残っているわけじゃないので、推測するしかありません。
今回は、徳川家康が三河弁を使っていたのか?という謎について、勝手に考察します。
家康が三河弁使っていた可能性
ドラマや映画などで描かれる家康さんが、三河弁を使っているのは単なる演出なのでしょうか。
三河弁を使っていた可能性について考えてみました。
まず、徳川家康が生まれたのは今の愛知県岡崎市です。
岡崎市は三河地方なので、三河弁を使う環境でした。
ですが、家康さんは6歳の時から人質になっています。
織田家の人質となり、その後は今川家の人質となりました。
そんな幼い頃から、尾張の織田家、駿府の今川家の人質として長い年月を過ごしています。
ということは、尾張も駿府も、三河弁に近い方言はありますが、コテコテの三河訛りの方言を使う大人が身近にいなければ、身に付かないのではないでしょうか。
家康さんが故郷である岡崎に戻るのは、15歳の時です。
父親の法要のために、一時的に帰っただけでしたから、まだ三河弁に囲まれる環境ではありません。
本格的に岡崎に戻れたのは、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれた後のことです。
年齢は19歳だったので、すでに大人ですよね。
6歳から19歳まで、約13年も三河の国から離れていたのに、三河弁を使っていたとは考えにくいというのが、個人的な考察です。
もし三河弁だったとすれば
徳川家康が三河弁を使っていたとすれば、その言葉が江戸にも広まっていたのかも知れません。
家康さんが豊臣秀吉に三河から関東に国替えを命じられた時、三河から多くの商人たちも移住したと言われています。
そう考えると、江戸では三河弁が標準になっていた可能性もあったわけですよね。
何しろ、家康さんが関東に来た時は、何もない荒野が広がるだけの関東平野だったのです。
人も少ない寂しい土地でした。
そこに三河から人が移住してきたのですから、三河弁がそのまま広まっても不思議ではなかったはず。
しかし、江戸っ子たちは三河弁は使いません。
その理由を考えてみました。
江戸の町は急激に栄えたので、全国から人が集まってきたので、色んな国の言葉が混在していたと考えられます。
もし家康さんと一緒に三河から移ってきた人がいたとしても、数々のお国訛りが混じり合う江戸では薄まっていったのではないでしょうか。
もしも家康さんがドラマや映画のように三河弁を使っていたのであれば、江戸城の中では三河弁を話していたのに・・と想像すると面白くなります。
大奥でも三河弁が飛び交っている様子を、思い浮かべてみてください。
何となく、微笑ましい感じになるのは私だけでしょうか。
まとめ
徳川家康という人物に対するイメージは、やはりドラマや映画の影響が大きいと思います。
人柄についても、狸おやじなんて呼ばれるのがすり込まれていますよね。
ですが、すり込まれるイメージではない部分を探ってみると、また歴史が面白くなると思っています。
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