徳川家康は、生涯2人の正室を迎えています。
1人目は今川家の人質だったころに迎えた瀬名姫(のちに築山殿と呼ばれる)です。
2人目は豊臣秀吉の妹です。
側室はたくさんいましたし、側室との間にたくさんの子供も作った家康ですが、なぜ瀬名と死に別れてから長い年月、正室を迎えなかったのか・・というのは歴史好きの間ではいろんな推測がされます。
そして、瀬名は悪女だったのか、それとも悲劇の女性だったのか・・というのもよく話題になるのです。
真実は誰にもわからないからこそ、歴史は面白いのでしょうが、何度でも掘り下げて考察したくなるのですよね。
瀬名とはどういう女性だったのか、考察してみましょう。
瀬名と家康のなれそめ
瀬名と家康のなれそめについては、様々な説があります。
瀬奈の父親は今川家の家臣でしたし、家康は幼い頃から人質として今川家の領地である駿府で暮らしていました。
お互いの存在を知っていても不思議ではありません。
三河の国を今川の支配下にし続けるためには、今川家と松平家のつながりを重要視して今川義元が二人を夫婦にさせたというのが通説です。
この時代の武家の婚姻は、政略結婚が当たり前だったので、そういうことだったのでしょう。
ただし、政略結婚でも夫婦仲が良い場合もあります。
瀬奈と家康の夫婦仲はどうだったのか・・。
この件については、色んなうわさがありますね。
よく言われるのは、今川家の血筋の瀬奈は家康を見下しており、とても強気で高飛車な女性だったため、家康は瀬奈の尻に敷かれていたとか。
のちに瀬奈を待ち受ける苦難の理由付けのために、そういう悪女キャラが設定されたとも考えられますね。
夫婦仲が悪くなる原因
家康と瀬名の夫婦関係がもともと良好だったのかどうか定かではありません。
しかし、少なくとも二人の子供に恵まれています。
それなりに夫婦としてうまくいっていたのではないでしょうか。
ところが、今川義元が織田信長の奇襲によって討たれた桶狭間の戦から二人の運命は変わってしまいます。
今川側は追い込まれてしまい、家康は松平家の本領である三河の国岡崎城に入ります。
瀬名と幼い二人の子供は駿府の置いたままですが、三河の民を守るために家康は今川側から離れて織田信長と手を結ぶことにしたのです。
今川義元の後を継いだ氏真は、瀬名と子供たちを人質とします。
家康は妻子を取り戻すために交渉しますがことごとく断られたため、今川の重臣の息子を捕らえて妻子と交換する方法でやっと瀬名と子供たちを岡崎へ連れてくることができたのです。
ここまでの流れを見れば、家康は妻子を取り戻すために頑張ったわけですから、夫婦仲が悪くなるとは思えないのですが、瀬名としてはそんなに簡単に気持ちがおさまることはなかったのではないでしょうか。
自分と子供たちが駿府にいるのにもかかわらず、今川を裏切って織田と同盟を結んだのですから。
しかし家康としては、孤立無援で織田側と戦うのは三河の国を滅ぼすことになってしまう。
三河の国の領主として、苦渋の選択だったはず。
しかし妻子を救いだすためにあらゆる策を練ったのですから、決して簡単に見捨てたわけではありません。
ですが、瀬名と子供たちを三河の国へ送り出したあとに、瀬名の両親は命を落としています。
そういう極限状態を経験したことで、瀬名は家康を許せなくなったのかも知れません。
築山殿と呼ばれた瀬名
瀬名が駿府から救い出されて三河の国に行っても、岡崎城には入らずに築山という場所で暮らしたと言われています。
なぜ岡崎城に入らなかったのか、その理由は定かではありません。
家康を許せなかったのか、それとも岡崎城に入っていた姑である於大の方の存在が気に入らなかったのかも知れません。
とにかく長く別居するようになり、そのうち築山殿と呼ばれるようになるわけです。
どんなに夫婦仲が良かったとしても、長い別居生活を送れば気持ちが離れてしまっても仕方ないでしょう。
築山殿の最期
築山殿の最期は、家康が織田信長から命じられて命を奪ったというのが通説です。
真相はどうなのかわかりませんが、瀬名が織田信長からスパイとして疑われるような原因はいくつか考えられます。
武田家の通じていた
築山殿と呼ばれて別居生活を送っていた屋敷に出入りする医者を名乗る男と通じていて、その男が武田から送り込まれたスパイだったという説があります。
築山殿は織田信長を憎んでいても不思議ではありません。
織田信長にとって、甲斐の武田は厄介な存在だったため、三河の家康も武田との戦は避けられない状況でした。
それを知ったうえで築山殿が武田と通じていたとすれば、織田信長の怒りをかっても仕方ないと思われます。
嫁と不仲だった
築山殿の武田密通説よりも織田信長の怒りをかった直接の原因と言われるのが、嫁との不仲説です。
家康と築山殿の間に生まれた嫡男の信康は、織田信長の娘である徳姫(五徳姫とも呼ばれる)を妻に迎えます。
しかしそれは築山殿にとって屈辱的なことだったのでしょう。
今川家に仕えてきた関口家の瀬名姫として成長してきた築山殿は、これまでの苦難の原因が織田信長だと思うのも理解できます。
両親を死に追いやったのも、生まれ育った駿府から命からがら逃げだしたことも、何もかもです。
その気持ちを息子の信康も理解していたのか、徳姫との夫婦仲は最悪だったと言われています。
それに耐えかねた徳姫が父親である織田信長に姑と夫の悪事を密告する手紙を出したことで、築山殿と信康の立場が悪くなったと考えられるのです。
松平家を守るための家康の判断
ここまでの流れを見れば「築山殿は悪女」というイメージだけでは語れないと思います。
築山殿に対する様々な説は、のちに天下人になる家康が妻と子を死に追いやったという事実を正当化するための後付けとも言えます。
ほんとのところはどうなのか、それは今でも色んな歴史研究家や学者が説を唱えています。
ハッキリとわかるような証拠が見つからない限り、推測の域を出ることはないでしょう。
ただ一つ言えることは、徳川家康として天下をおさめた人物が、私情だけで妻と子を死に追いやることは考えられません。
やはり三河の国を守るための苦渋の選択だったのではないでしょうか
嫁姑問題が生んだ悲劇
じつは瀬名が築山の屋敷で家康と別居することになったのは、姑である於大の方が瀬名を嫌ったからという説もあります。
その理由ははっきりとはわかりませんが、於大の方は家康が幼いころに離縁されて実家の刈谷に戻っています。
離縁の理由は、実家の刈谷城主になった兄の水野信元が今川側から離れて織田と手を結んだからです。
家康の父の松平広忠は、今川家との関係が悪化するのを恐れて、妻を離縁したのです。
しかし理由が自分の実家が作った原因からなのに、嫁の瀬名を嫌うのは理不尽のような気がしますね。
ですから、瀬名が岡崎城に入らなかったのは姑である於大の方の存在が理由とは限らないでしょう。
信康が松平の家督を継いで、家康が浜松城に居城を移したあとも築山殿は一緒についていきませんでした。
もうすっかり夫婦として関係は冷めていたのではないでしょうか。
それよりも、息子である信康の妻である徳姫との嫁姑問題のほうが深刻だったと思います。
徳姫が男子を産めないから、側室を付けたのが築山殿という説があります。
松平の継承のためですし、その時代の武家の当主に側室がいるのはとくに変でもありません。
しかし徳姫は何かにつけて口出しをする姑の存在が気に入らなかったと考えられます。
そして母親の言うなりになる夫に対する不満も募ったのではないでしょうか。
今の嫁姑問題とあまり違いはないのかも知れませんね。
まとめ
築山殿がなくなった後、家康は正室を迎えずに長年過ごしてきました。
側室は数多くいましたが・・・。
そのことから、家康の築山殿に対する気持ちが推察できます。
しかし築山殿の市に関することはわからないことが多いため、あくまでも考察として書いていますのでご了承ください。