家康公の生母である於大の方とはどんな女性だったのか!

歴史上の人

戦国時代を終わらせ、江戸に徳川幕府を開き、徳川幕府初代征夷大将軍となった徳川家康公。

言わずと知れた武将です。

そして、数えきれないほど歴史ドラマや映画などで描かれてきた人物です。

幼い頃に親元から人質として出され、様々な苦難を乗り越えてやっと戦のない時代の基盤を作った人です。

同じ愛知県出身の織田信長や豊臣秀吉と比べると、奇抜さや派手さのない印象もありますが、戦のない世の中を作ったことは大きな功績ではないでしょうか。

家康の幼い頃の話は、人質時代のことがほとんどなのですが、ご生母である於大の方との関係はあまり知られていません。

ときどき描かれるのは、生き別れた我が子への愛情を持ち続ける女性だったり、幼い頃に離れたことで親子の情がほとんどない冷たい女性だったり・・。

たしかな記録が残っているわけではないので、歴史というのは想像や推測、妄想が膨らむので面白いのですよね。

今回は、あまりクローズアップされることのない家康公のご生母である於大の方について、掘り下げてみようと思います。

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於大の方とは

於大の方については、家康のご生母であること以外は、さほど詳しいことがわかっていません。

西三河にある刈谷城主の娘として生まれたことや、松平家に嫁いだこと、そして松平家の嫡男である竹千代(家康の幼名)を産んだことはわかっています。

この時代は、家と家との結びつきを強くするために、武家の娘は政略結婚の道具になるしかなく、於大の方も三河岡崎の松平家との政略結婚のために岡崎城に嫁ぎました。

於大の方が松平家の嫡男を産んだあと、実家の刈谷城主となった兄の水野信元は、織田家と今川家の対立に挟まれる三河の国において西側に位置する刈谷を守るためにも、今川と近い松平家と縁を切ります。

それによって於大の方は松平家から離縁されてしまいます。

幼い息子竹千代を置いて追い出されるカタチとなったわけです。

その後、久松俊勝と再婚し、のちに伝通院となり生涯を終えました。

※於大の方に関しては、様々な説があります。

於大の方の役割

織田信長という人物の名前が、広く知られるきっかけになったのは、桶狭間の戦で今川義元を討ち取ったからです。

大軍の今川に奇襲攻撃をしかけて討ち取ったというのは、あまりにも有名な話。

これまで、様々な歴史ドラマや映画でもそのことは触れられていますが、松平元康(家康)がなぜ織田側につくことになったのかまで、詳しく描かれることはあまりなかったと思います。

今川の搾取に苦しみ、貧しい生活を強いられていた三河の者たちが桶狭間の戦をきっかけに奮起したというのが、一般的な見方だったと思います。

描き方によっては、家康と織田信長が通じていたことで桶狭間の戦が成功したという説もありました。

何か真実なのかはわかりませんが、織田と松平が手を結ぶことになるのは、刈谷城主の水野が深くかかわっており、歴史上ではほとんど名前が出てくることもなかった松平元康(家康)の生母である於大の方の進言もあったという描き方が昨今ではみられるようになりました。

幼い頃に生き別れた産みの母の言葉が心を動かすという演出です。

それは実際にあったかどうかわかりませんが、松平家は織田と今川の間で苦しんできたことは事実です。

三河国を自分たちの手で治めたいという気持ちになるような、説得があったと考えるのも不思議ではないでしょう。

それは於大の方の役割だったとは思えないのですが、そういう情に訴えかける演出があるとドラマや映画は盛り上がるからかも知れません。

いつぞやの大河ドラマでは、於大の方からの手紙で織田につくことを決めたという演出もありました。

もしかしたら、そういうことがあったのかも?と思いたくなります。

於大の方は、松平家から離縁されたあとにも、結局は水野家の政略に使われていたのではないでしょうか。

しかしそれは、於大の方に限ったことではなく、武士の家に生まれた娘の宿命だったと思います。

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家康との関係

今川家と切れて、織田側についた後の家康は、母親の於大の方が再婚後に産んだ久松俊勝との間に生まれた三人の異母兄弟に松平の姓を名乗ることを許しています。

幼いころに別れてしまった母親でも、やはり家康にとっては大切な存在だったのではないでしょうか。

一説には、幼少期から今川家で人質となっている間に、身の回りの世話をした於富の方という人物は、於大の方の母親であったといわれています。

つまり、生き別れであったとしても、祖母を通じて母親との関係が続いていたとも考えられるのです。

そうなると、桶狭間の戦からの家康の決断には、於大の方の影響が反映したというのもあり得るのかもしれませんね。

まとめ

於大の方のことは、あまり詳しく知られていません。

ですが、伝通院という東京都文京区小石川にある寺院は、家康が母親のために建立しました。

その後も徳川家にゆかりのある女性がそこに埋葬されていることから考えても、やはり徳川家にとって家康の生母である於大の方(伝通院)は大きな存在感があったのではないでしょうか。

今回、於大の方に注目したのは、大河ドラマに登場したからです。

しかし、筆者である私自身が於大の方にゆかりのある土地で生まれ育ち、幼いころから於大の方と竹千代の物語を聞いて成長してきたからでもあります。

戦国時代のことですが、その土地の人間にとっては、身近で親しみのある人物です。

於大の方とはどんな人物だったのか、多くの人に興味を持ってほしいと思っています。

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