天璋院篤姫はなぜ徳川を守り抜こうとしたのか!伝えられる人柄とは!

歴史上の人

天璋院篤姫といえば、大河ドラマの主人公にもなるほどの人物です。

幕末の徳川を描くドラマや映画に登場することが多いので、とくに歴史に詳しい人じゃなくても名前は知っているのではないでしょうか。

しかしなぜ天璋院篤姫は、多くの人たちの興味を引くのか、不思議に思うのです。

その理由について、自分なりに考えてみました。

篤姫さんにはファンも多いので、異論反論あるかと思いますが、そこはただの歴史好きの考察として温かい目で見ていただければと思います。

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篤姫が徳川に嫁いだ理由

篤姫は徳川幕府第13代将軍の徳川家定の正室として嫁ぎます。

徳川の歴代将軍の歴代の正室は、4代家光から15代慶喜までの間は朝廷との関係を重視して、公家の家柄の娘を迎えることが多かったのです。

しかし4代~15代までの間に2人の武家出身の正室がいます。

その2人が島津家から正室として嫁いだのです。

天璋院篤姫が徳川家定の正室となったのには、ここに理由があるのです。

大河ドラマなどを見ていると、島津家藩主が徳川将軍家への発言力を強めるために、将軍家との縁組を望んだかのように描かれることもありました。

しかし、徳川幕府の将軍の正室になりたいと手をあげても、「はいどうぞ」というわけにはいきません。

そのあたりから考えると、島津家から望んだというのは考えにくいと思うのです。

しかも天璋院篤姫は、島津家藩主の娘ではなく、分家の娘でした。

分家の娘をわざわざ島津斉彬の娘として迎えて、そこから近衛家の養女となり、正室として嫁がせたのです。

そこまでしたのは、どうしても島津家から正室を迎えたいという要望があったと考えるのが自然だと思うのです。

なぜ将軍家が島津家にこだわったのかというと、13代将軍の家定が過去に正室として迎えた2人の女性が若くして亡くなっていることが理由という説があります。

家定も病弱であり、正室として迎えた女性は次々に亡くなってしまえば、お世継ぎは難しいと思われていました。

それを心配した家定の母親が考えたのが、11代将軍家斉の妻だった広大院にあやかることです。

広大院は島津家から将軍家に嫁ぎ、御台所として大奥に君臨した女性です。

しかも11代将軍家斉は子宝にも恵まれていました。

家定の母は、島津家の姫を正室として迎えることで、家斉のようになってほしいと願ったのでしょう。

島津家としては、将軍家からの要望に応えることで、立場を優位にすることも期待できるわけですから、なんとしてもそれに応えたかったのだと思います。

島津家当主の娘には、その役目に適した年頃の女性がいなかったので分家の娘から選んで養女として迎えたのです。

最初から島津家が企んだ策略ではなかったと考えると、不自然ではなくなります。

篤姫の役割は何だったのか

天璋院篤姫は、家定の後継となる14代将軍に一橋家の慶喜を推すために島津家が送り込んだと言われていました。

ですが、結果的に14代将軍は紀州の家茂が指名されています。

篤姫は、島津藩の意向よりも家定が決めたことを尊重したのです。

その流れから考えると、篤姫が一橋を推すように工作したとは考えにくいのではないでしょうか。

14代将軍の家茂も若くして亡くなってしまうので、最終的に徳川最後の将軍は一橋家の慶喜公になるわけです。

幕末から明治維新までの激動の時代に、天璋院篤姫は大奥を取り仕切り、家茂の正室だった和宮(静寛院)、勝海舟とともに平和的に江戸城を新政府に受け渡すために力を尽くします。

幕末の大奥の様子を描いたドラマなどでは、天璋院が成し遂げた無血開城のインパクトが強いですよね。

ですが、なぜ天璋院篤姫はそこまでして徳川家を守り抜こうとしたのでしょうか。

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篤姫が徳川を守りたかった理由

篤姫が正室となってわずか1年9か月後には、第13代将軍徳川家定は病気で亡くなってしまいます。

夫の没後に薩摩藩は天璋院の帰国を申し出ています。

しかし、その申し入れを天璋院は断っているのです。

そして14代将軍となった家茂を支え、大奥で暮らす女性たちを守るために力を尽くします。

一説には、家茂が亡くなった後に将軍となった慶喜が大奥の縮小を含めた改革を進めようとしたときに、和宮(静寛院)とタッグを組んで徹底抗戦したとも言われています。

それまでは和宮とは嫁姑の険悪な間柄だったと言われているのに、大奥を守るためには力を合わせたのです。

そのエピソードから想像すると、天璋院篤姫が徳川に残り、徳川を守ろうとしたのは大奥の女性たちを守ることだったのではないでしょうか。

2年にも満たない夫婦生活でも、家定のことを深く愛したという美談もあります。

それを否定する理由はりません。

ですが、それだけでずっと徳川を守ろうとするでしょうか。

天璋院篤姫は徳川幕府の中に入り、大奥の中で暮らすうちに、200年以上もの長い年月、大きな戦を起こさずに国を治めることの大切さを学んだのではないでしょうか。

そのやり方が強引だったとしても、強力な力で国を引っ張るために徳川家の人々がどれほど苦労してきたのか目の当たりにしたのです。

きっと薩摩藩の立場からしか物事を見られない人たちとは、考え方に違いが生まれたのでしょう。

徳川の世を続けることは、平和のため。

そして徳川の世を続けるために大奥を制度化したわけですから、その長い歴史に触れて、天璋院はどんどん徳川にのめり込んでいったのだと推察します。

篤姫にとって薩摩藩とは

天璋院篤姫は、大奥を新政府に明け渡した後も、大奥で働いていた女性たちのために力を尽くします。

就職先や嫁ぎ先を見つけるなどして、生活に困窮しないように図らったのです。

天璋院に対しては、薩摩藩から生活費の援助の申し出があったのに、きっぱりと断っています。

そして徳川16代の当主になる亀之助の養育に励みます。

私財を投じて亀之助を海外に留学させるなどして、徳川家がいつかまた表に立てると信じていたのではないでしょうか。

薩摩藩とは距離を置き続けて、一度も里帰りしなかったそうです。

すごく頑固な人ですよね。

自分の故郷である薩摩と徳川の間に挟まれて苦悩していたはずですが、徳川の人間としての誇りを最後まで守り抜いたのです。

想像するしかありませんが、自分が望んだわけでもないのに徳川家の正室になったのに、徳川家を攻撃した薩摩に対する怒りの気持ちは消えなかったのではないでしょうか。

何のために徳川に嫁いだのか、存在する意味を考える日々だったのでは・・・と想像します。

まとめ

天璋院篤姫が登場するドラマや映画を見るたびに、描かれ方は違っても、芯の強い女性という軸はブレません。

きっとそのキャラは、単なる想像ではないと思います。

1883年(明治16年)に亡くなる時まで徳川の人間として、誇り高く生き抜いた天璋院を見てきた人々が語り継いだ記録が残っています。

それが描かれる人物像のもとになっているはずですから。

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