激動の戦国時代を生き抜き、天下人となった徳川家康には数多くの側室がいたことは伝わっています。
一説には20人以上いたともいわれていますが、定かなことはわかっていません。
記録に残っている人物の中には、歴史の重要な場面に登場した側室もいます。
それが阿茶局です。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」にも登場しています。
阿茶局は、家康の子供を産んでおらず、側室というよりも片腕のような存在だったと言われています。
数多くの側室の中で、阿茶局がひときわ目立つ存在になった理由を掘り下げてみました。
阿茶局が側室になるまで
阿茶局は甲斐武田氏の家臣、飯田直政の娘として生まれました。
名前は須和(すわ)
須和は武田家と今川家の和睦のあとに、今川家の家臣に嫁ぎ男児を授かりました。
しかし夫は結婚して4年ほどで亡くなってしまいます。
幼い子供を抱えて困っていた須和を側室として迎えたのが、家康だったのです。
家康が側室を選ぶ基準は、容姿ではなかったというのは有名な伝説です。
容姿よりも、出産経験があり、健康な女性を選んだというのは、世継ぎを絶やさないために、多くの嫡子を残す必要があったからではないでしょうか。
須和は幼い子供を抱えて未亡人となったばかりなので、年齢的にも若く、まだこれから出産できる可能性も高かったのですから家康の望む条件にはまったのだと考えられます。
側室になったのは正室の築山殿が亡くなって間もないころだと言われています。
家康が心を許せる側室として、阿茶局は存在感を示すようになったと考えられます。
阿茶局の役割
阿茶局は、家康の側室になる前に男児を産んでいます。
しかし、歴史に名を刻むほど目立った存在なのに家康の子供は出産していません。
理由として考えられるのが、流産なのです。
阿茶局は、戦に出る家康に同行したと言われており、豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いにも同行しました。
そこで流産してしまったという記録があるのです。
それ以降、阿茶局が懐妊することはなかったのですが、才覚に秀でた人物だったので、側室という役割だけでなく、徳川家にとって重要な存在になっていったのです。
とくに重要になったのは、後の二代将軍になる徳川秀忠の養育係です。
秀忠の実母である於愛の方が亡くなったあとに、秀忠の養育を担ったのが阿茶局だったのです。
阿茶局が側室になる前に産んだ男児は、秀忠の側にいる御伽衆でしたから、自分の子供も一緒に秀忠を守ることになったのです。
歴史に名を刻む大仕事
阿茶局が多くの側室の中でも目立つ存在として有名になったのは、二代将軍秀忠の養育係になったことも大きいでしょう。
三代将軍家光の乳母になった於福(春日局)もそうです。
しかし、養育係だけではなく、阿茶局は戦国時代の終わりとなる大阪の陣では大坂城に入り、豊臣側との交渉役になったのです。
豊臣との交渉には、女性が適していると考えたのは家康だったのかも知れませんが、阿茶局は見事にその重要な任務を果たし、豊臣秀頼と淀殿に和平条件を受け入れさせたのです。
家康亡きあと
徳川家康が亡くなったときに生存していた側室は、阿茶局を除いて全員が落飾(髪を短くして仏門にはいる)しています。
なぜ阿茶局は落飾しなかったのかというと、家康の遺言だったのです。
家康は将軍の座から引退して駿府城に入った後も、大御所として絶大な権力をもっていました。
自分が亡くなったあとのことを考えると、阿茶局の秀でた才覚はまだまだ必要だと考えたのではないでしょうか。
落飾することを許さず、政治にかかわり続けたのです。
二代将軍秀忠の五女が後水尾天皇のもとに入るときには、阿茶局が付き添い上洛しています。
天皇から従一位の位も与えられるほどの役割を果たしたのだと思います。
初代と二代の将軍を支えた
阿茶局が剃髪して表舞台から退いたのは、二代将軍秀忠が亡くなった後なのです。
83歳という、その時代では超ご長寿だったのですね。
徳川家康が正室と嫡男を死なせてしまったあと、失意のどん底にいたときから、天下人となり、その後継者が育ち、徳川幕府が安定するまで見守り続けたのです。
ある意味、阿茶局は安寧の世を作った立役者とも言えるのではないでしょうか。