徳川家康には何人の側室がいたのか!側室を選ぶ基準とは?

歴史上の人

日本に限ったことじゃないですが、権力を持つ立場になると、正妻のほかに側室を持つことは珍しくなかったのですよね。

今の時代でも、一夫多妻制の国も残っています。

なぜ側室が必要だったのか、その理由はやはり子孫を残すためだったのでしょう。

一度手にした権力を自分の子々孫々に受け継がせるためにも、自分の子供を多く残すために側室を持ったのでしょうね。

その究極のかたちが江戸城にあった「大奥」ではないでしょうか。

大奥は、徳川将軍家の世継ぎを絶やさないことが至上命題です。

一人の将軍のために、1000人ほどの女性が大奥にいたと言われています。

もっとも、江戸城大奥の制度が確立する前に初代の徳川家康は隠居して亡くなっているため、後々まで続く大奥の制度をつくったのは三代将軍の乳母である春日局と言われています。

それは徳川家康が多くの側室を持ち、多くの子供を残したことが影響しているのではないでしょうか。

いったい徳川家康には何人の側室がいたのか、記録に残っているだけでも何人いるのか調べてみました。

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徳川家康の正室

徳川家康は正室が2人いました。

最初の正室は築山殿(瀬名姫)です。

築山殿は、織田信長から裏切者と疑われたことが原因で死に追いやられます。

そのことは家康の心に大きな傷になったのか、その後は長く正室はいない状態が続いていました。

2人目の正室は豊臣秀吉の妹である旭姫(朝日姫)は、政略結婚のために離縁させられて家康の正室になったのです。

築山殿との間には2人の子供がいました。

長男の松平信康は、母の築山殿と同じく織田信長から裏切り者として疑われたことが原因で自害しました。

娘の亀姫は旧武田家の家臣の家に嫁いでいます。

旭姫との間には子供はいません。

もしも家康公に側室がいなければ、お家を継承する男子が途絶えてしまうのですが、側室がいたので途絶えることはなかったのです。

徳川家康の側室

徳川家康の側室は記録に残っているだけで17人いたといわれています。

一説には20人とも30人ともいわれていますが、側室として記録に残せない人物もいたのかもしれません。

それについては、確かめる術がないので今回は記録に残っている人物だけで見ています。

ここで意外だなと思ったのが、17人の側室のうち8人は子供がいなかったことです。

家康が側室を選ぶ基準は、過去に子供を産んだ経験のある女性が多かったと伝わっています。

経産婦であれば、子供を産める体だと考えたからでしょう。

それでも8人の側室には子供がいなかったのですから、命を授かることは安易ではないですね。

西郡の方(蓮葉院)

西郡の方は、三河国西郡(現在の愛知県蒲郡市)の城主鵜殿忠長の娘です。

家康にとって次女になる督姫を産んだ側室です。

於万の方(小督の局、長勝院)

於万の方は築山殿の侍女だったという説があります。

生い立ちについては諸説ありますが、定かではありません。

正室が認めていない立場でしたが、家康にとって次男になる、後の結城秀康を産んだ女性です。

一説には、築山殿が侍女に手をつけたことに激怒したので、側室と認められなかったと伝わっています。

於愛の方(西郷の局、宝台院)

於愛の方は、徳川幕府2代将軍になる秀忠の生母です。

松平忠吉の生母でもあります。

29歳の若さで亡くなっています。

於都摩の方(下山殿、長慶院)

武田家臣の娘で、穴山梅雪の養女として家康に仕えたといわれています。

家康の5男となる万千代(後の武田信吉)を産んだ女性です。

一説には3女の振姫を産んだともいわれています。(ほかの側室の説もあり)

於茶阿の方(朝覚院)

遠江の出身で、夫が亡くなった後に家康の側室になったといわれています。

家康の6男松平忠輝、7男松平松千代を産んだ女性です。

諸説ありますが、美しい女性だったと伝わっています。

於亀の方(相応院)

生まれは京都で後家になって家康の側室になったといわれています。

8男平岩仙千代と9男徳川義直を産んだ女性です。

間宮氏女(普照院)

小田原の後北条氏の家臣の娘といわれています。

家康の4女である松姫の母ですが、松姫が3歳で亡くなったため、その後のことはあまり記録に残っていないようです。

於万の方(蔭山殿、養珠院)

北条家臣の養女として小田原の陣のあとに家康の側室になり、10男徳川頼宣、11男頼房を産んだ女性です。

於梶の方(英勝院)

家康が江戸に国替えになった後に側室になったといわれています。

5女市姫を産んだのですが、幼くして市姫が亡くなった後、於万の方が生んだ頼房の養育係になったといわれています。

これは家康の命によってという説があるので、於梶の方は家康の信頼が厚かったのかもしれません。

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阿茶の局(雲光院)

家康の側室の中でも、名が通った人物です。

とても頭が良くて、家康の知恵袋のような役割もしたと伝わっています。

戦にも同行したという説があり、妊娠中に戦に同行したことで流産してしまい、その後は子を産めなかったといわれています。

豊臣家との大阪の陣では、大阪城に入り和議の使者になったというエピソードも有名です。

阿牟須の方(正栄院)

甲斐武田氏家臣の娘といわれています。

子を授かるも、難産で母子ともに亡くなったといわれており、詳しいことはわかっていません。

一説には、戦場に同行していたといわれていますが、定かではありません。

於仙の方(泰栄院)

武田氏家臣の娘として家康に仕えたが、子供はいません。

於竹の方(良雲院)

武田氏家臣の娘として家康に仕え、子供はいなかったといわれていますが、一説には3女の振姫の生母という説もあります。

於梅の方(蓮華院)

於梅の方は、家康の側室として仕えたのちに本多正純の妻になった女性です。

於六の方(養儼院)

北条氏家臣の娘で、於梶の方の侍女だったといわれています。

その後、家康に仕えたが若くしてなくなっています。

於夏の方(清雲院)

家康の晩年にそばに仕えた側室です。

最後まで残ったのはこの於愛の方だけだったようです。

信寿院

詳しいことがほとんどわかっていない人物です。

子孫を残す役割

家康にはわかっているだけで16人の子供がいました。

しかし幼くして亡くなった子もいますから、当時の医療では子供が無事に成長するかどうかわかりません。

徳川家康は、戦国の世を生き抜いてきて、戦のない平和な世の中を作ろうとしてきたのは歴史を見てもわかります。

のちに江戸時代と呼ばれる約200年は小さな争いはあったとしても、戦のない時代が長く続いたのです。

それは徳川幕府という大きな権力を維持し続けることができたのが大きかったのではないでしょうか。

初代の徳川家康が多くの側室をもち、子孫を残したのも、徳川幕府を盤石なものにするためだったのではないでしょうか。

のちに大奥の制度が構築されるのも、その意図が反映されたのではないでしょうか。

まとめ

徳川家康にたくさんの側室がいて、子も数多く残したという話だけを聞いて、子供のころはただのスケベなおじさんだったのでは?なんて思っていました。

しかし、乱世に戻さないために、絶対的な強い権力を維持しようとしたのだと考えると、そんな風に思っていたことが申し訳なくなりました。

ほんとのことは、わかりませんけどね・・

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