伊達政宗や徳川家光などの生母はなぜ弟を溺愛したのだろう!

歴史上の人

歴史に名を残した人物を主人公とした大河ドラマでは、不可解なこともあります。

時代が違うし、立場も違うのだから、理解できないこともあるだろう。

でも、どんなに時代が違うとしても、変わらないこともあります。

それは親が子を思う愛情です。

しかし、歴史上には自分のお腹を痛めて生んだ子供でも、優劣を付けるなどして愛情の注ぎ方に差を付けたとされる女性たちがいます。

とくに大名の家では、お家を継承するための男児が大切にされ、女児は家と家を繋ぐための政略結婚の道具のように扱われることもあったようです。

さらに言えば、同じ男児でも家を継承する長男よりも、次男を溺愛したことなどが伝えられています。

有名なところでは、欧州の覇者と恐れられた伊達政宗、徳川三代将軍家光です。

また、織田信長もそうだったとか。

なぜ同じ我が子なのに、愛情の注ぎ方に差ができてしまうのか、その理由を考えてみましょう。

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武家の跡取り息子の育て方

後世に名を残すほどの有名な武将は、代々続く武家の生まれであることが多いですね。

戦国時代の頃には、名立たる武家では正室が生んだ子供は乳母が育てるというのが一般的でした。

その理由は色々考えられますが、生母に権力が集中することで、家の中に余計なトラブルが生じるのを防ぐ目的があったと思われます。

もともとは、天皇や公家の行いを武家がマネしただけだと言われていますが、長くその習慣が続いたのには、それなりの理由があるからではないでしょうか。

弟を溺愛したのは脚色か

大河ドラマ好きの人なら、名立たる武将が幼少期に母親の愛情を知らずに育ったと思い込んでいます。

私もその一人です。

そして、跡取りとなった兄は乳母が育てて、次男は母親の手元で育つため、弟を溺愛する母親が兄の失脚を企むという筋書きがよく見られます。

しかし、じつは名立たる武家になれば、正室の子供は乳母が育てるので、弟だけが母親の愛情を受けて育つなんてことは、まず考えられなかったのです。

つまり、弟に母親の愛情を独占される悲しみを描くことは、ドラマを盛り上げるのには絶好のネタです。

母親との仲が悪かったという説が残っていたとしても、それが弟の溺愛に直結するわけではありません。

少しばかり大げさに描かれていると考えるのが、自然ではないでしょうか。

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伊達政宗の母

伊達政宗の母親は、伊達家と敵対する最上家から嫁いだ人です。

政略結婚ですね。

伊達家と最上家の間で板挟みになることも多かったと記録されています。

また、伊達政宗がどんどん勢力を伸ばすのを見て不安になり、家を守るために毒殺を試みたというのも有名なエピソードです。

しかし、それも事実かどうかは怪しいものです。

伊達政宗が実の弟を死なせたというのも、歴史的には有名です。

母親が弟を溺愛するあまり、正宗を狙ったという説が残るのも、弟が死んだからなのでしょう。

ですが、これは弟側についた者たちが、正宗の失脚を企んだことが原因と考えるのが妥当であり、母親の愛情が理由ではないと思います。

徳川家光の母

第三代将軍徳川家光の母親は、織田信長の妹お市の方と浅井長政の間に生まれた江姫(お江与またはお江の方)です。

家光の乳母と言えば、大奥の仕組み作りをした有名な春日局です。

江姫と春日局の対立があり、家光は母親との距離を感じていたという説もあります。

春日局は、織田信長を本能寺の変で討った明智光秀の家臣だったため、江姫との確執があったというのも推察できます。

ただ、江姫が弟を溺愛して世継ぎの座に据えようと画策していたという説は、あまり信ぴょう性はありません。

弟である忠長にも乳母がいましたから、どちらかと言えば春日局との対立の方が大きかったのではないでしょうか。

織田信長の母

織田信長の母親については、あまり記録が残っていません。

土田御前と呼ばれていて、自由奔放に振舞い「うつけ」と呼ばれるほどの信長よりも、おとなしい弟の信勝を可愛がったという説があります。

しかしこれも真実はわかりません。

弟の信勝が兄に対して反抗的だったのが母親の影響なのかどうかはわからないのですが、兄弟の仲が悪かったのは間違いないようです。

信長への反逆の意図が見られたので、誅殺されたのですから。

土田御前が「うつけ」だった息子を疎ましく思った時期もあったのかも知れませんが、尾張だけにとどまらずに勢力を拡大し続ける信長のおかげで、安泰に暮らせたのですからいつまでもいがみ合っていたとは考えにくいのではないでしょうか。

昭和までの皇室

武家の子供を乳母が育てる慣習は、公家を真似したと言われています。

それは天皇家がそうであったので、公家もそれにならったのだと考えられます。

時代が変わっても、天皇家では子育てをするのは生母ではなく乳母でした。

それは昭和まで続いたのです。

美智子様が自ら育児をするまでは、その習わしがずっと続いていたのですから、それはとても大きな出来事だったのでしょうね。

まとめ

歴史上の武将たちが母親との確執がドラマとして描かれることが多いのは、まったく事実無根と言うわけでもないと思います。

ただ、その理由は愛情云々ではなく、家を継承するためや権力争いの方が大きいでしょう。

母親なのに子供への愛情に差をつけるなんて・・。

このようにひどい話だと印象付けるのも、一つの演出なのでしょうが、それだけに目を奪われてはいけないのでしょうね。

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