服部半蔵も柳生十兵衛も忍者ではないの?

伝説の人

海外でも大人気の忍者ですが、そもそも忍者はその名の通り「忍びの者」なので表舞台には出てこないはずです。

しかし、歴史上の人物や出来事を描いた小説、ドラマ、映画などの作品の多くに忍者は登場します。

忍者の働きによって、歴史が大きく動いたとしても、それは記録には残らないはずなのです。

それなのに忍者という存在が語り継がれるのは、それほど人を惹きつける魅力があるからなのでしょう。

しかし、有名な忍者として知られている服部半蔵、また忍びの衆を束ねていたと言われている柳生十兵衛はじつは忍者ではなかったそうです。

そう言われても、忍者という存在は謎が多いのでわからない部分が多過ぎますよね・・。

その謎がミステリアスなので、忍者の魅力なのかも知れません。

今回は、有名な忍者として知られる人物について、調べてみました。

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服部半蔵

江戸城(現在の皇居)には半蔵門と名付けられた門があります。

この門の名は服部半蔵が由来だというのは、有名ですよね。

服部半蔵は、日本で一番有名な忍者といっても過言ではないほどの存在です。

この「服部半蔵」という名は、初代から12代まで名乗り続けた通称です。

屋号のようなものでしょうね。

日本で一番有名な忍者とも呼ばれるほどですが、服部半蔵は初代の服部半蔵保長だけが忍者であり、2代目からは忍者ではなく武士だったのです。

初代の保長は伊賀出身の忍者だったと伝わっているが、2代目は鎧兜を身に着けて戦で功績をあげたと伝わっている。

忍び働きをする衆を使うことはあったのかも知れないが、記録に残るような派手な仕事をしないのが忍者なので確かなことはわからないのだ。

大河ドラマ「どうする家康」に出てくる服部半蔵は2代目です。

セリフにも「忍びではなく武士」と言っているので、武士として認められたい気持ちが強かったのかも知れませんね。

ちなみに半蔵門は、江戸城を見張る上で重要な門であり、服部半蔵の部下たちがこの門の見張り役として常駐していたと考えられています。

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柳生十兵衛

柳生十兵衛と言えば、ドラマや映画では剣豪というイメージが強く、徳川家の家臣の中でも影の仕事をする役割として描かれることが多いです。

徳川家の剣術指南役から大名にまでなった柳生宗矩の息子である十兵衛は、とくに忍者と同じように描かれることもありました。

その理由として考えられるのは、柳生一族が大和の国(現在の奈良県の山奥)に柳生の庄という里の出身だからだ。

この土地は、伊賀と甲賀にとても近い場所にあるのです。

その山奥の里で、兵法や剣術だけじゃなく忍びの術の鍛錬もしていたと考えるのは、不自然ではありません。

剣術や兵法に長けた一族であり、さらに柳生の庄から各地に情報網を広げていたことから、徳川家の諜報部の役割も担っていたと考察されます。

それが忍者と重なるため、影の仕事をする一族として語られているのではないでしょうか。

まとめ

歴史ドラマが好きな人なら、服部半蔵や柳生十兵衛以外にも、表に出ている歴史が動く影には忍者の存在があったことを想像するとワクワクすると思います。

記録に残らないことが多い忍者だからこそ、想像力を掻き立てられるのでしょう。

服部半蔵や柳生十兵衛は忍者ではなく武士として名を残していますが、彼らの手足となり、目となり耳となった忍者がいたことは容易に想像できますね。

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