大奥は実際にあったのですが、その中で起こったであろう出来事は、口伝えの部分が多いと言われています。
記録として残らないけれど、伝説的に残っている出来事が後々まで人々の興味を引いたのではないでしょうか。
外から見えない閉鎖的な世界である大奥を舞台にしたドラマは、時代を超えて人気を集めます。
そこには、大奥を取り仕切る「大奥総取締役」という人物が登場します。
しかし、実際にそのような役職はなかったという説もあるのです。
では、大奥を取り仕切る人は何と呼ばれたのでしょうね。
様々な説から、大奥総取締役について考察します。
大奥とは
大奥とは、徳川幕府の本拠地である江戸城の中にありました。
将軍の妻、側室、子供などが生活するところであり、言ってみれば将軍のプライベートエリアというところでしょう。
大名家では、仕事を行う場所のことを表、私的な場所のことを奥と呼んでいました。
表向き、奥向きという使い方をしていたようです。
つまり、大奥というのは将軍家の奥のことであり、規模が大きくなった奥向きのことを大奥と呼ぶようになったと考えられています。
今でも、妻のことを奥さん、奥様、奥方などと呼ぶのは、この名残なのでしょう。
奥向きのことを取り仕切るのは、その家の妻の役割であることから、奥方という呼び方が定着したようです。
江戸城の大奥
江戸城の中の大奥は、本丸、二の丸、西の丸の3つです。
3つの建築物が大奥だったというのは、それほど多くの人たちがそこで生活していたことを物語っています。
本丸には、将軍夫妻が暮らすのが基本です。
正室の中には、本丸御殿に暮らすのを嫌がって、中の丸に移り住んだ例もあったようです。
二の丸は、将軍の母親が暮らす場所でした。
西の丸は、大御所夫妻や世継ぎ候補になる息子夫妻などが暮らすことが多かったようです。
初代将軍の徳川家康は、大御所となってからは駿府城(静岡県)で暮らしたので、この例には当てはまりません。
ちょっと疑問に思ったことがあるんですけど
側室のことじゃない?
そうそう、大奥と言えば複数の側室が暮らしていたはずだよね。
ですよね。
じつは側室は正室と同じ御殿の中で暮らしていたのですよ。
将軍の生母が暮らす二の丸には、引退した将軍の側室も暮らしていたようです。
それじゃドロドロするよね~
まあ、色んなドラマが生まれたからこそ、今の時代でも大奥が舞台になるドラマや映画に人気があるのではないでしょうか。
大奥総取締役とは
大奥には、1000人を超える人が暮らしていたと言われています。
最盛期には3000人もいたというのですから、スゴイ規模ですよね。
大奥のドラマでは、その中で絶大な権力を持つ大奥総取締役が出てくることが多いです。
ですが、実際には大奥総取締役は存在しませんでした。
大奥では、御年寄(老女)たちが話合いの上で決めていたのです。
大奥では、上臈御年寄(じょうろうおとしより)が一番上の役職になるのですが、公家出身の正室の御付きの人が担うことが多く、実務にはあまり関わらないケースがあったようです。
実務に関しては、御年寄が握っていたので、事実上のトップは御年寄です。
ただ、長い大奥の歴史の中には、総取締役と呼ぶにふさわしい人物がいました。
たとえば、大奥の中の規律を整えた三代将軍家光の乳母である春日局や、その春日局から後を引き継いだお万の方などです。
大奥総取締役という役職ではなく、筆頭御年寄という立場がそれに当てはまるのではないでしょうか。
筆頭御年寄で有名なのは、幾島、瀧山です。
筆頭御年寄の力がいつでも強かったわけではなく、将軍の側室や生母が力を持っている時もあるので、役職だけで権力が集まったということではなさそうです。
まとめ
大奥総取締になれば、1000人を超える女中たちのトップに君臨するというイメージが強くあります。
しかし、1人に権力が集中するのではなく、複数人が会議をして決めていたのですね。
大奥の御年寄になれる人は、ごく一握りです。
そこまで出世すれば、相当な権力を持っていると思いますけどね。