一夫一婦制がほとんどですが、世界の中にはいまだに一夫多妻制の国もあります。
それぞれの国の歴史や文化があるので、一夫多妻をやみくもに否定する気はありません。
でも理解もできません。
しかし、日本だって表向きは一夫一婦制でも、側室、お妾、二号さん、愛人と呼ばれるような人がいました。
今だって、表面では見えないだけでしょう。
いつの時代にも、妻以外の女性に心を奪われる男はいるのです。
しかも日本のように男尊女卑の時代が長く続いた国では、女性の地位がとても低かったので、ガマンするのが当たり前だと思われてきました。
江戸時代の武士は、世継ぎを絶やさないために側室を迎えることもありましたし。
そういえば、本妻が側室の子供を育てることもあったんだよね
子供を生むための道具のように扱われていた時代が長かったんだ
ヤキモチとか妬いてたら、身が持たないね
そうなんですが、みんながみんな割り切っていたわけではありませんよ。
歴史に名を残している嫉妬深い女性もいたのですよ。
北条政子
鎌倉幕府をひらいた源頼朝の妻である北条政子と言えば、頼朝亡き後は尼さんになりました。
しかし出家したのちも権力をふるい、尼将軍という異名があるほどの女傑です。
強い女性というイメージが強い北条政子ですが、頼朝への愛情の強さもまた有名です。
もともと源頼朝は関東で静かに暮らさなければいけない流人でした。
そこで北条家の娘と出会ったわけです。
流人とはいえ源氏は由緒正しい家柄なので、関東の田舎豪族の娘だった政子とは、不釣り合いだったのです。
自分の身分の低さをコンプレックスと感じていたことから、妻の座を脅かすような存在に強い嫉妬を持ったと考えられます。
頼朝の子を産んだ妾を追放したり、側室の屋敷を破壊させて捕らえようとするなど、北条政子の嫉妬伝説は有名です。
ただ、その強い嫉妬心は女のヤキモチだけではなく、自分の生きる場所を守るためだったのではないかと考察します。
ひっそりと隠れるように生きていた流人だった源頼朝ですが、武家のトップである征夷大将軍にまで上り詰めたのです。
関東荒野の豪族の娘だったコンプレックスは、妻の座を死守する気持ちを強めたのではないでしょうか。
お江与
徳川幕府第二代将軍である徳川秀忠の正室は、織田信長の姪のお江与の方(江姫)です。
浅井三姉妹の末っ子であるお江与の方は、じつはバツ2でした。
徳川秀忠との結婚は3回目だったのです。
1回目も2回目も、豊臣秀吉によって縁組みされた政略結婚でした。
秀忠との間には、子供が6人います。
長女の千姫は、姉の淀殿の息子である豊臣秀頼の妻になりました。
いとこ同士の政略結婚です。
男児にも2人恵まれていますから、夫婦仲はけっして悪くなかった思われます。
しかし、お江与の方はかなり嫉妬深い人で、秀忠の子供を他の女性が産んだことは、家臣は必死で隠したと言われています。
会津松平家の初代藩主となった保科正之は、秀忠が他の女性に産ませた子供です。
幼い頃に家臣の保科家に養子に出されて育てられました。
将軍の子供(しかも男児)であれば、江戸城内で大切に育てられたはずです。
そこ子の生母も側室として、大奥で暮らせたはずでしょうが、それが叶わなかったということは、秀忠はお江与が怖かったのではないでしょうか。
夫婦のパワーバランスとして、お江与が強かったというのはあくまでも伝説です。
しかしお江与の方の方が6つ年上です。
姉さん女房でもあり、激動の戦国時代を生き抜いてきた女性ですから、とても強い人だったのではないかと推察できますね。
側室が複数いるのが当たり前の立場だったのに、妻に隠れてコソコソしていたのであれば、お江与の方の嫉妬深さは相当だったのだと思います。
まとめ
大河ドラマで話題になった日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一。
彼の妻は愛人が生んだ子供も、大切に育てていた良妻として描かれました。
近代日本の土台を作り、西洋文化にも精通していた人物でも妾がいたのです。
それを咎めることなく、嫉妬の感情を見せることなく耐え忍ぶのが良い妻とすり込まれていたのでしょう。
それが妻の鑑だと思われた時代があったのは間違いないですが、心の中は穏やかではなかったと想像するのは私だけでしょうか。