「千両蜜柑」という落語の前半は他の話にそっくり?難しい内容に!

落語の人

古典落語は、もともと上方から伝わったものを東京の落語家がアレンジしたものもあります。

また、当時は新作や創作と呼ばれた作品も、年月が経って受け継がれることで古典の仲間入りすることもあります。

古典というと、何百年前を想像したりしますが、明治に生まれた落語も古典落語になるのですよね。

一つの作品がカタチを変えるのも珍しくないため、噺の冒頭だけ聞くと「どっちだろう?」と迷うこともあります。

「千両蜜柑」はまさにそうです。

はじめの部分だけ聞いていると、「千両蜜柑」なのか「崇徳院」なのかわからないこともあります。

ほんとに落語に精通した人なら、噺家のレパートリーもよく知っているのでわかるのかも知れませんが、そこまで詳しくないとわかりません。

とくに色んな芸人が出演する寄席では、演目が事前に発表されることはないのでわからないのです。

「千両蜜柑」と「崇徳院」を聞き分けるポイントは、聞き比べすればすぐにわかります。

ですが「千両蜜柑」は「崇徳院」とは違い、ちょっと内容を理解するのが難しいと感じています。

2つの演目の違いや、落ち(サゲ)の読み解きについて考えてみました。

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「千両蜜柑」のあらすじ

暑さが続くようになった7月にある大店の若旦那が、何日も寝込むほど具合が悪くなりました。

父親である店の主人は、息子のためにあらゆる手を尽くしました。

評判の良い医者を探して診てもらうのですが、どんな名医でも若旦那を治すことができません。

そんなとき、遠方からわざわざ連れてきた医者から「これは気の病だ。何か強い心残りから体調を崩している。その原因を解決すれば快方に向かうはずだ」というのだ。

さっそく主人は若旦那に何が望みなのか聞き出そうとするのだが、一向に言おうとしません。

困り果てた主人は、若旦那とは幼いころから一緒に育ってきた番頭に聞き出す役目を託すことにしました。

しかし番頭相手でも、若旦那はなかなか言おうとしません。

それでも粘り強く番頭が聞き出そうとすると、若旦那はこう切り出した。

「お前に話してもいいが、どんなことを聞いてもバカにしないで必ず望み叶えると約束してくれるのなら話してもいい」と。

番頭は必ず約束を守り、若旦那の望みを叶えると言ったので、若旦那は話します。

「私は蜜柑が欲しいんだ」と。

番頭は思いがけないことに拍子抜けします。

てっきりどこかで一目惚れした女を探して欲しいというようなことだと予測していたからです。

「そんなことならお安い御用だ」とうけあい、主人にそれを伝えるのですが、意外な反応が返ってきます。

「無理なことを・・・」と困り果てているのです。

理由を聞いて番頭はすぐに頭を抱えました。

言われてみれば、こんな夏の季節に蜜柑が簡単に手に入るわけはないのです。

ビニール栽培なんてない時代のお話ですから、言われてみればごもっとも。

それでも番頭は若旦那との約束を果たさなければいけないので、夏の盛りに蜜柑を探し回りました。

冬の時期に蜜柑を売っている店を歩き回っていると、一軒の店で「蜜柑はある」と言われて大喜びしました。

その店では、毎年冬に仕入れた大量の蜜柑のうち一部を夏まで蔵で保管しているというのです。

番頭がその理由を聞くと「あなたのように夏の時期に蜜柑が欲しいというお客がいるからだ」という答えが返ってきました。

しかし、かなりの量の蜜柑を保管していても、冷蔵も冷凍もできない時代なのでほとんどが腐ってしまいます。

その中から腐っていない蜜柑を探すのは一苦労でしたが、奇跡的に腐っていない蜜柑を見つけることができました。

しかしその値段を聞いてビックリ!

なんと蜜柑1個が千両だと言うのだ。

わざわざ腐ることを覚悟の上で、大量に保管するのだから、そのくらいの価値はあるというのが店側の言い分だ。

番頭の一存では決められないので、戻って店の主人に話すと「息子の命には代えられない」と千両出すというのだ。

そんな苦労をして手に入れた蜜柑を若旦那に渡すと、みるみる血色がよくなった。

ひと房ずつを美味しそうに食べる様子を見て番頭は「10房あるから1房は100両か」と考えていた。

7房まで食べたところで、若旦那は残りの3房を番頭に手渡し「心配かけた両親と苦労して手に入れてくれたお前に1房ずつ食べてもらいたい」と言った。

番頭は3房の蜜柑を手に若旦那の部屋を出ると、主人のところに持って行こうとしたのだが、ふと立ち止まって考えた。

ここにある蜜柑は300両の価値がある。これからのれん分けを許されたとしても300両なんていただけるわけもない

番頭は3房の蜜柑を持ったまま、姿を消したのでした・・。

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崇徳院との違い

千両蜜柑のあらすじを見ると、落語の好きな人は崇徳院を思い出すでしょう。

崇徳院についてはこちら

崇徳院では、寝込んでしまった若旦那のところに行くのは、出入りの職人です。

寝込んでしまったワケを聞くと、一目惚れによる恋煩いが原因でした。

一目惚れした相手を必死で探し当てるというのが、崇徳院のあらすじです。

千両蜜柑よりも理解が容易いのではないでしょうか。

最近は恋煩いなんて言葉も廃れつつありますが、恋をしたときに胸がドキドキし過ぎて食事な喉を通らなくなるようなことは、多くの人が経験していると思います。

しかし千両蜜柑の若旦那の気の病の原因は、どれだけ考えてもさっぱりわかりません。

理解に苦しむ原因が先に立ってしまうので、落ち(サゲ)のことまで考える余裕がなくなってしまうという人も少なくありません。

千両蜜柑は番頭の心がカギ

千両蜜柑の主役は若旦那のために蜜柑を探し回る番頭です。

丁稚奉公という制度によって、幼いころから親元を離れて商家で働きながら商売を学び、働きが認められればのれん分けして独立します。

この千両蜜柑の番頭さんも、幼いころから一生懸命に働いてきたので、番頭になり、そろそろのれん分けのことも主人は考えているほどです。

そこまで真面目に働いてきたのにもかかわらず、若旦那の「蜜柑が欲しい」という望みに千両という大金を出してしまう主人の金銭感覚に呆れてしまったのでしょう。

自分が今まで一生懸命に積み上げてきたものと比べてしまったときに、バカバカしく感じてしまい、自棄になって店を去ってしまったのです。

つまり、千両蜜柑を考察すると、蜜柑を欲する若旦那のことを理解しようとするのは無駄なわけです。

理解できないような望みに、大金を惜しげもなく出してしまう価値観の違いを感じてしまったことが、何もかも嫌になる原因になったと考えられますね。

まとめ

千両蜜柑をはじめて聞いたときは、終わった後もポカンとしてしまい、意味がわかりませんでした。

しかしそれは、崇徳院と比べてしまったからかも知れません。

もっとストレートに聞いてみると、一般庶民の価値観とかけ離れた人たちに接したときに投げやりになる人の気持ちが少しわかるようになりますよ。

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