「粗忽長屋」は面白いけれど落ちが難しい古典落語?

落語の人

古典落語の「粗忽長屋」は、いわゆる滑稽話のなかでも有名な演目です、

落語が好きな人なら、もちろんご存知だと思います。

粗忽者(そこつもの)とは、そそっかしい人のことを指しています。

そそっかしい人が巻き起こす勘違いや早とちりは、いつの時代にも笑い話になるものでしょう。

ですが、あまりに粗忽の度が過ぎると、付いていけなくなるのかも・・。

じつは「粗忽長屋」をはじめて聞いたとき、すごく笑ったのだけれど、最後のサゲ(落ち)のところで「へ?」となってぽか~んでした。

他の人はみんな理解してるのなら

ちょっと焦るね(笑)

そうなんですよね、自分だけわからないのは不安です。

でも、意外と同じように感じている人もいることがわかりました。

滑稽話なのに難しく感じるのはなぜなのか、「粗忽長屋」について掘り下げてみました。

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「粗忽長屋」のあらすじ

長屋の隣同士に住んでいる八五郎と熊五郎は、とても気の合う者同士で兄弟分として付き合っていました。

なぜ気が合うのかと言えば、この二人、とてもそそっかっしい人たちなのです。

ある日、浅草に出かけた八五郎は、雷門の前に人だかりができているのに気が付きました。

「いったい何の騒ぎだい」と近くにいる人にたずねると「どうも行き倒れらしい」と。

どれどれと人のすき間を掻い潜っていくと、ムシロをかけられて横たわっている。

側に立っている役人がめくって顔を見せて「誰かこの者の知り合いはいないか」と聞いている。

八五郎はその顔を見て「おお、これは今朝会った隣の熊五郎だ」と叫んだ。

しかし役人は「今朝会った人なら勘違いだ。この者は昨夜からここに倒れていたのだから」と言う。

それを聞いても八五郎は「いや、今朝会ったときに熊のやつはボーっとした様子だった。あいつは自分がここで行き倒れているのにも気が付いていないんだ」と言い張り、熊五郎をここに連れてくると言って走り出した。

長屋について熊五郎の家に入ると、「おい、お前は浅草の観音様の前で行き倒れて死んでいる」と言うが本人は「そんなはずはない」と言う(当たりまえ)

しかし八五郎は譲らない。

「お前はそそっかしいしから、自分が死んだことに気が付いていないんだ。昨晩は何をしてたんだ?」と聞くと熊五郎は思い出しながら話した。

「吉原を冷かして、ちょっと飲んだら酔っぱらって気が付いたら自分の家で目が覚めた」

これを聞いて八五郎は「ほらやっぱりな。お前は悪い酒にあたって長屋に帰る途中で行き倒れたんだ」

ここまで言われると、熊五郎も何となくそんな気がしてきて「そう言われれば、目が覚めたときも心持ちが良くなかった」と・・・。

二人は急いで雷門の前に行き、役人がとめるのも聞かずに「死体の本人が引き取るんだから文句はないだろ」と八五郎は死体を熊五郎に背負わせます。

周囲の人たちは呆気にとられて眺めていますが、二人はお構いなしに死体を担いで歩き出します。

そのとき熊五郎が八五郎にたずねました。

「なぁ兄貴、背負われているのが俺ならば、背負っている俺は誰なんだろう」

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理解できないサゲの意味

「粗忽長屋」のあらすじを書いていても、やっぱり最後は「?」になります。

ですが、それは滑稽話なのに真面目に考え過ぎているからだったのですよね。

この噺は、あり得ないことを思い込んでしまうほど、そそっかしい人間がよりによって同じ長屋で隣同士で暮らしているという設定です。

常識的な考え方が通用しない人が2人揃えば、ここまでぶっ飛んだストーリーも不思議ではないのですが、つい真面目に考えてしまうと「?」になってしまうのです。

そして最後に熊五郎が「背負われているのが俺ならば、背負っている俺は誰なんだ」という疑問で終わるのが、ちょっと哲学的なので深く考えたくなるのではないでしょうか。

まとめ

落語のサゲ(落ち)は、噺家によって少し変えることもあります。

解釈を聴衆に委ねるようなこともあるので、「粗忽長屋」も何か深い意味があるのではと勘繰りたくなるのでしょうね。

でも、桁外れの粗忽者のドタバタを深く考えずに笑えば良かったようです。

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