日本三大悪女のひとり日野富子はなぜお金に執着したのだろうか!

歴史上の人

歴史に残る日本三大悪女。

日野富子、北条政子、淀殿です。

何百年経っても、ずっと日本三大悪女と呼ばれるからには、相当な悪女ぶりだったのでしょう。

ですが、彼女たちが悪女と呼ばれるほどになるまでには、どんな背景があったのか気になります。

北条政子や淀殿は、描かれる歴史ドラマによっては悪女と言えるのか・・と感じることもあります。

しかし日野富子に関しては、群を抜いた悪女ぶりです。

なぜ日野富子が世紀の悪女と呼ばれるような人になったのか、その理由を考察してみます。

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日野富子

日野富子と言えば、お金への執着心が人一倍強かったと言われています。

そもそも、日野富子が長く続いた応仁の乱の元凶とも考えられています。

応仁の乱は将軍の後継者争いが原因ですが、日野富子が自分の子供を後継者にしたくて、猛プッシュしたことから戦争にまでなってしまったのです。

しかも日野富子は応仁の乱の期間中に、敵にも味方にも金銭を貸し付けていたのです。

このことが原因で、応仁の乱はなかなか終わらなかったと言われています。

さらに、応仁の乱のあとには、戦で荒れた都を立て直すためと言う名目で、都に関所を作ります。

そも関所で徴収したお金も、また日野富子が私服を肥やすために着服したとも。

これが日野富子が悪女と呼ばれる所以です。

日野富子が悪女になった理由

足利家と繋がりのある由緒ある家に生まれ、室町幕府8代将軍となる足利義政の妻になったのですから、とても恵まれています。

それなのになぜ日野富子はそこまでお金に執着したのでしょう。

ここからは推測です。

日野富子が将軍家に嫁いだのは、16歳の頃です。

将軍の後継者になる子供を期待されていたと思います。

ところが富子はなかなか子供に恵まれませんでした。

そこで後継者として、出家して仏門に入っていた将軍の弟を呼び戻します。

しかしその後に富子に子供ができたのです。

そうなると、自分の子供を後継者にしたくなったのでしょう。

出家して静かに仏と向き合っていたのに呼び戻された、足利義視は納得できなかったはず。

ここまでは日野富子が母親になったことで、我が子可愛さに正しい道が見えなくなってしまったと考えられます。

ですがなぜ、敵味方関係なくお金を貸し付けたり、強欲なまでにお金に執着したのでしょう。

その理由を考えてみると、お金を頼るしかなかった心細さがあったのではないでしょうか。

富子の夫である足利義政は、武士としての強さや逞しさに欠けたという説があります。

文化や芸術にとても興味があり、将軍の座を退いた後は、文化芸術に浸る暮らしを好んだと伝えられています。

日野富子は、世継ぎを生めないことで肩身の狭い立場になっても、自分を守ってくれない夫への不満もあったのではないでしょうか。

どれほど恵まれた境遇に生まれたとしても、女性の立場はとても弱かったのです。

しかし財産を持っていれば、戦を左右することもできます。

日野富子がお金に執着したのには、そのような背景が影響したのではないでしょうか。

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日野富子の背景

じつは日野富子は、結婚して間もなく男の子を出産しています。

しかし生まれてすぐに亡くなってしまいます。

その後も子供がまったくできなかったわけじゃなく、二人の女の子が生まれているのです。

ですが、将軍の正妻としては男児を産めなかったことは相当なプレッシャーではなかったかと思います。

でも、日野富子が義政の妻になってから、9代将軍となる足利義尚を生むまでの年月は10年なんですよ。

その間に子供にまったく恵まれなかったわけでもないのに、そこまでのプレッシャーを感じたのは、一番最初に亡くなってしまった子供への愛情の強さが根底にあるのではないかと考察します。

富子は、生まれてすぐに亡くなってしまった子供への母性が強すぎたのか、子供の死因を乳母のせいにして島流しの刑にしました。

さらには、子供へ憎悪が向けられるのを恐れて義政の側室も追放するのです。

そうなれば、さらに世継ぎを生めないことへのプレッシャーが強くなります。

結果的に自分で自分を追い詰めるようなことを、していたのではないでしょうか。

まとめ

日本三大悪女の中でも、権力とお金に対する執着は飛び抜けている日野富子です。

しかしそうなるまでには、彼女なりの苦しみや悲しみがあったのではないかと想像してみました。

ただ強欲で権力を振りかざし、子供を溺愛するあまり世の中を混乱させたという結果だけではない部分を考えてみると、少し違う姿が見えてくるのかも知れません。

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