古典落語の「ねずみ」には、有名な彫刻職人の左甚五郎が登場します。
左甚五郎といえば、日光東照宮の眠り猫を彫った人物と言われていますね。
実在の人物が登場する古典落語はとくに珍しいわけではないのですが、左甚五郎に関して言えば、言い伝えられる作品の作られた年代が数百年にも及ぶため、一人ではなかったのではないかと考えられています。
岐阜県の飛騨高山出身であるとか、飛騨から京都へ向かい宮大工として名をあげたなど、伝説は数多くあるので確かなことはわからないのですよね。
しかし、言い伝えられる彫刻職人の代名詞として左甚五郎という名が残っているわけです。
そういう伝説のある人物だから、落語の登場人物にもなるのでしょう。
左甚五郎が登場する古典落語のなかでも、一番有名で人気の高い演目と言われているのが「ねずみ」です。
この演目は結末の部分だけが別の話のようになるのが不思議です。
「ねずみ」の結末について、掘り下げてみました。
「ねずみ」のあらすじ
江戸で大工の政五郎の家で居候として暮らしていた左甚五郎。
あるときふらっと奥州(現在の宮城県方面)へ旅に出た。
城下町の仙台で宿を探そうとしたときに、まだ幼さの残る少年の客引きに声をかけられて、その宿に泊まることにした。
宿というのは名ばかりで、布団は貸布団を使うので先に布団代を払って欲しいと言われるし、足を洗うのは川の水、夕飯は出前の寿司という始末だった。
しかも少年の父親である宿の主人は、足が不自由な様子で歩くのも苦労している。
宿の主人にわけを聞いてみると、思わず同情してしまうような事情があった。
もともとこの宿の主人は、道を挟んで向かいにある虎屋という旅館の主人だったのだ。
数年前に妻を亡くして、後添いとして迎えた女が番頭とデキてしまった。
継子である少年をいじめたり、主人に対して冷たく当たるようになった。
そんな時、宿で客同士が酔った勢いで喧嘩をはじめたため、仲裁に入ったところ勢いよく突き飛ばされて二階から転げ落ちてしまい足が不自由になってしまったのだ。
すると番頭と後妻はあからさまに邪魔者扱いをして、向かいにあるボロ家に主人と息子を追い出したのだった。
仕方なく親子はそのボロ家で宿をはじめて何とか生きているといういきさつだったのだ。
ねずみがよく出るボロ家なので、「鼠屋」という屋号にしたという。
それを聞いた左甚五郎は、翌朝までに小さな木彫りのねずみを作った。
そのねずみは、まるで生きているかのように、たらいの中で動き回るのだ。
その不思議な仕掛けのねずみを宿の前に置くと、たちまち話題になった。
しかもそれを彫ったのが、有名な左甚五郎だというのも話題になる大きな理由だったのだ。
ねずみを見るために、多くの人が鼠屋の客になると使用人を雇えるほどになり、やっと親子の暮らしも人並みになったのだ。
面白くないのは向かいの虎屋の夫婦だ。
そこで虎屋の主人となった元番頭は、仙台城下で有名な彫刻家に大金を払って虎の彫り物を作らせて虎屋の二階に置いたのだ。
すると鼠屋の木彫りのねずみはピタッと動かなくなってしまった。
鼠屋の主人は虎屋がそこまでして自分たちの邪魔をすることに腹を立てた。
怒りのあまり、立てないと思っていたのが立ち上がることができたのだった。
思わぬことに鼠屋の主人は驚いて、江戸に帰った左甚五郎にお礼の手紙を送った。
「虎屋の虎の彫り物のおかげで私の腰は立ちましたが、ねずみの腰が抜けてしまいました」と。
甚五郎はその手紙を受け取ると、また仙台の鼠屋へ行ってみたのだ。
すると虎屋の二階にある虎の彫り物は、どう見ても虎の風格などない出来栄えのものだったのだ。
甚五郎は「おいねずみ、私は魂を込めてお前を彫ったんだ。あんな出来損ないの虎がそんなに怖いのかい?」と言ったのだ。
するとねずみはこう言いました。
「え?あれは虎ですか?私はてっきり猫だと思ってました」
「ねずみ」の解釈
古典落語の結末は、解釈が難しいものも少なくありません。
しかし「ねずみ」の落ち(サゲ)は、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)でわかりやすいのが特徴です。
虎屋の元番頭と後妻は、根性が悪い人間なので、主人を追い出して乗っ取ったとしても客の評判が悪ければ徐々に客足は遠のき、商売がうまくいかなくなるのは当然のことです。
しかしそれを鼠屋のねずみの彫り物のせいだと思い込み、大金をはたいて虎の彫り物を作らせるのですが、そんな人間からの依頼では魂のこもった作品を作る気にもならないでしょう。
結果的には、鼠屋の主人の不自由になった足は治り、また宿屋を繁盛させるべく商売に精を出せるようになりますから、ねずみの彫り物が動かなくなったことも意味があったわけですよね。
ねずみの彫り物のセリフ
勧善懲悪でわかりやすい結末なのですが、落ち(サゲ)で木彫りのねずみにセリフがあることで、一気にこの演目のラストのテイストが変わります。
まるで童話の終わりのような、ファンタジーを感じるのですよね。
そこが不思議に感じるのですが、これはあえてねずみにしゃべらせることで、虎の彫り物に大金を使った虎屋の元番頭と後妻を蔑んでいるわけです。
ねずみからしてみれば、虎よりも猫の方が怖いわけで・・。
虎屋は大金を使って、猫に見間違えるような出来栄えの虎の彫刻を作ったことになるわけです。
ねずみにしゃべらせることで、虎の彫刻の出来損ないぶりが際立つので、あえてセリフを与えたのではないでしょうか。
まとめ
「ねずみ」をはじめて聞いたときは、最後に彫り物がしゃべることにあまり疑問を感じなかったのです。
よく考えてみれば、たらいの中で動き回るような不思議な細工の木彫りのねずみなので、しゃべっても不思議じゃないような気がしていたのだと思うのです。
フィクションのだから何でもありではなく、流れとして違和感を抱かせないのは見事ではないでしょうか。