落語の演目には、道具屋と呼ばれる人が登場する作品がいくつかあります。
道具屋、猫の皿、火炎太鼓など。
井戸の茶碗は道具屋ではなくクズ屋ですが、道具屋のようなことをしたことが演目の始まりです。
道具屋は、現代で言えばリサイクルショップのような一面もあります。
ですが、昔の道具屋は価値の高いものをできるだけ安く手に入れて、その差額で儲けるのが基本だったようです。
このような道具屋が登場する演目は、人間同士の駆け引きが面白いのですが「得したい」という欲深さは誰もが思うことだから理解できるのかも知れません。
今回は「はてなの茶碗」という演目について考察してみようと思います。
「はてなの茶碗」のあらすじ
清水寺の音羽の滝の前にある茶屋で一人の男がお茶を飲んでいた。
お茶を飲み終えると、茶碗を見ては首をかしげている。
そして「はてな」と小さく声に出して見せを出て行った。
その様子を見ていたのが油を売り歩く男だった。
「はてな」と言い残して茶屋をあとにした男は、いかにも大店の主人という雰囲気だったため、もしかしたらその茶碗は価値の高いものかも知れない・・と思ったのだ。
そこで茶屋の主人に茶碗を譲って欲しいと頼むのだが、あっさりと断られる。
聞けば、さっきの大店の主風の男は、茶道具屋などが多い衣棚に店を出している金兵衛だと言うのだ。
金兵衛といえば、日本一の茶道具屋と呼ばれるほどで「茶金さん」という呼び名は広く知れ渡っているほどの有名人だったのだ。
やはり間違いなく、この茶碗は高価なものに違いないと確信する油売りの男。
しかし茶屋の主人も簡単には譲ろうとするわけはない。
そこで油売りの男は持ち金の二両を全て差し出し、さらに「もしも儲けが出たら分けるから」と説得して、その茶碗を買い取ったのだ。
さっそく油売りの男は道具屋の奉公人のような身なりをして、茶碗を箱に入れて衣棚の茶金の店へ向かった。
店頭で対応したのは番頭だった。
「こんな安物、値が付くわけはありません」と笑われてしまう。
頭に来た油売りの男は番頭に食ってかかって店先で騒ぎ出した。
その騒ぎを聞きつけて奥から主人の茶金が出てくると、茶碗を見て「これは安物の茶碗ですよ」と言うのだ。
油売りの男は、茶屋での様子を茶金さんに伝え「じゃあ、どうしてあんな素振りを見せたんだ?」ときくと茶金はこう答えたのだ。
「この茶碗はひび割れてもいないし、どこを見ても傷ひとつないのに、茶がポタポタと滴るのが不思議でね」と・・・。
油売りの男はがっくりと肩を落とす。
「油を仕入れるための金も使ってしまった、どうすりゃいいんだ」と困り果てた様子だ。
それを見た茶金さんは「わかりました。あなたは私の茶金という名に二両をつけたんだ。これはもう商人冥利に尽きます。その茶碗は私が三両で買いましょう」と言って安物の茶碗を買い取ったのだ。
茶金はこれを時の関白鷹司に話すと、関白はその茶碗を見たいと言い出した。
茶碗を見せると関白は「清水の 音羽の滝の 音してや 茶碗もひびに もりの下露」と和歌を詠んだ。
その話は宮中でも噂になり、ついには帝もその茶碗を見たいと言うのだ。
恐れ多くも帝にその茶碗を見せると、帝が茶碗の箱に「波天奈(はてな)」と書き入れた。
瞬く間にこの話は広まり、大坂豪商の鴻池善右衛門が千両で買い取りたいと言い出したのだ。
安い茶碗が千両となり、茶金は油売りの男を探し出し、半分の五百両を手渡した。
油売りの男は茶金に深く感謝して店を出て行ったのだが、数日後にまた茶金の店にあらわれた。
「旦那、今度は十万八千両の大儲けですよ」と言って、数人で運んできた大きな水瓶を指さした。
「今度は水が漏る瓶を見つけてきましたぜ」
油売りの男は悪人なのか?
「はてなの茶碗」をはじめて聞いたときは、油売りの男は欲ばりな人だという印象でした。
五百両もの大金を手に入れておきながら、さらにもっと大きな儲けを欲しがるのだから、きっと最終的には一文無しになるようなサゲだと思ったほどです。
ところが、そうではない終わり方で何だか拍子抜けしてしまいます。
しかし、なぜこのような落とし方になったのか、考察してみると深い意味があり油売りの男が単なる欲ばりな人間というわけでもなさそうだと感じ始めます。
十万八千両の大儲けとは
「はてなの茶碗」は、昔話のわらしべ長者のような内容に思いがちですが、じつは強烈な風刺だという説があります。
最後の「十万八千両の大儲け」とは、煩悩の108にかけているとも考えられるからです。
また、この茶碗を千両で買い取った鴻池善右衛門は、天明の飢饉のときに銀千八十貫を差し出したという説が伝わっています。
鴻池善右衛門が飢饉に苦しむ民のために、自らの気持ちで差し出したのなら良いのですが、どうやらお上からの命が下り、富裕層に寄付を募ったと言われています。
この千八十貫が「十万八千両の大儲け」という数字につながると考えると、なるほど風刺なのだと納得します。
「はてなの茶碗」は庶民のこと
「はてなの茶碗」を深く考察すると、ひび割れもなく傷もないのに茶が漏る茶碗は、庶民のことではないかと考えられます。
つまり、真面目に働いていても一向に暮らしが豊かにならないのはなぜなのか?という庶民の不満をあらわしたのではないでしょうか。
一方、もとは安物の茶碗を千両という大金で買い取ろうとする富裕層もいるのですから、超格差社会です。
働いても働いても、お金が蓄えられないのはお上に吸い上げられているから・・という皮肉ではないか?と思うと深いですね。
まとめ
昭和の日本は高度経済成長期で中流層がとても多かったのですが、平成から令和にかけてはどんどん格差が広がっています。
庶民の暮らしはどんどん厳しくなるのに、さらなる増税ですから、悲鳴をあげたくなるような世の中になりました。
まさに「はてなの茶碗」のような風刺のきいた落語が聞きたくなりますね。